○証人(岡本良藏君) コムソモリスクに入りましたのは一九四七年の九月であります。そこでは十一分所と申しまして総員約五百名、これは懸罰ラーゲルと当時称しておりました。将校が三百名、兵下士官が大体二百名から二百五十名おりました。その当時コムソモリスクに、收容所の番号なんかは忘れましたのですが、市内だけで約一万ぐらいおつたのではないかと思います。それから四八年の三月に穆稜に行きまして、将校は穆稜の将校分所
○証人(岡本良藏君) 私は一九四五年の九月の三十一日にハバロフスクに参りまして、一九四七年の九月の初めにコムソモリスクに参りました。それから四十八年の三月に穆稜、コムソモリスクの対岸のソフカニー、ここにずつと行つておりました。従つてコムソモリスク、或いは穆稜……。あな辺のことは一九四七年の九月以降のことしか分りません。そうしまして、元来編成部隊のままでハバロフスクに入りまして、伐採その他の作業指揮官